歴史

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現在ではアジア有数の近代国家へと発展したタイ王国。しかし、いまなお街なかには数多くの寺院や祠が、また少し郊外に目を遣れば遙か昔を偲ばせる遺跡の数々が残り、人々の生活や文化にも古くから脈々と受け継がれてきた伝統が息づいています。このタイという国がどのように生まれ、そしてどのようにこの独自の文化を育んできたのか、この地に築かれた代々の王朝を簡単に振り返りながら、その長い歴史を見てみましょう。

先史時代から古代国家の成立まで

タイの歴史は、先史時代の遺跡が数多く出土するイサーン地方(タイ東北部)からはじまります。なかでも紀元前3600年ごろから紀元後3世紀にかけての集落跡とされるウドーンターニー県のバーンチェン遺跡は、世界史上でも比較的早期の農耕文明を持ち、東南アジアで最も重要な遺跡のひとつとして世界遺産にも登録されています。時代が下って6世紀から11世紀ごろにかけては、モーン族による都市国家、ドヴァーラヴァディー王国がチャオプラヤー川沿いのナコーンパトム県を中心としたタイ中央部、そしてランプーン県を中心としたタイ北部に成立。また9世紀になると、現在のカンボジア付近にあったクメール王朝がタイ東北部へ勢力を拡大し、その支配が13世紀初頭まで続きました。かつてはタイ族の起源は中国から南下した民族であるとされていましたが、以上のような先史時代の遺跡、またドヴァーラヴァディ王国やクメール王朝などの史料から、現在その説は否定されています。

「幸福の夜明け」と名づけられたタイ族初の王朝[スコータイ王朝]

クメール王朝の支配が弱まってきた13世紀初頭、その配下にあったタイ人土侯がクメール人勢力を駆遂し、現在のスコータイとシーサッチャナライ両都市を中心とした地域に「幸福の夜明け」(スコータイ)と名づけた王朝を築きました。これがタイ族による国家のはじまりです。当初スコータイ王朝は、同時期に同族の土侯によって現在のチェンマイを中心に建設されたランナー王朝と同盟を結んでいましたが、第3代ラームカムヘーン王(在位1279–1298)は陶器の生産や森林物産などを背景とした諸外国との貿易で経済力を高め、やがてランナー王朝など周辺国家をその支配下におきます。また数多くの寺院建設を行って上座部仏教の布教に尽力したほか、タイ文字の考案など、現在のタイ文化の基礎を築き上げました。スコータイ王朝は約200年、9代にわたって続きましたが、15世紀中ごろにはチャオプラヤー川沿いに台頭していたアユタヤ王朝の属国となり、ひとつの時代に幕が下りることになります。また同時期に北部のランナー王朝もビルマの属国となりました。

国際交易港として栄えたアユタヤ[アユタヤ王朝]

タイ中央部では、1351年にチャオプラヤー川流域にあったロッブリーとスパンブリーが統合され、アユタヤ朝が成立しました。アユタヤはその恵まれた立地条件を背景に、周辺の農村や森林地帯から集積する物資の交易拠点として繁栄し、隣国スコータイを併合、さらに東北部を支配していたクメール王国へも侵攻して、1431年にはその王都アンコールを陥落させました。その後、隣国のビルマとの戦争に敗れ属国となった時代もありましたが再び盛り返し、17世紀ごろにはオランダやフランス、日本など世界各国からの商人が渡来、アユタヤはヨーロッパと東アジアを結ぶ国際交易港、またシャム国(当時のタイの呼称)の首都として隆盛を極めました。末期は内乱が続き、1767年にはついにビルマのコンバウン王朝(1753–1885)の侵略を受けて417年におよぶ長い歴史に終止符が打たれます。しかし、王室儀礼や宮廷文化、官僚制度をはじめとする政治体制、さらに諸外国との交易を重視する政策などは、ラッタナコーシン(バンコク)王朝に引き継がれていきます。

戦争に明け暮れた15年[トンブリー王朝]

当時タークの国主だったタークシン王は、1767年にビルマの侵攻をうけて廃墟となったアユタヤからビルマ軍を撃退し、同年トンブリー(現在のバンコクのチャオプラヤー川を挟んだ対岸)に住居を構えて王に即位、ここにトンブリー王朝が築かれました。しかし敵対する各地の国主の討伐や、その後もタイを狙うビルマ軍との防衛戦、さらに繰り返されるカンボジアへの侵攻など戦争が続き、それに不満をもつ当時サムハナーヨック(首相に当たる地位)であったチャオプラヤー・チャクリー(後のラーマ1世)らによって1782年にタークシン王はその位を剥奪され、処刑されます。こうして、戦争に明け暮れたトンブリー王朝は15年という短命に終わりました。

近代国家へと変貌をとげたタイ[ラッタナコーシン王朝]

1782年、チャオプラヤー・チャクリーはタークシン王の王位を剥奪して内乱を鎮めた後、チャオプラヤー川を挟んだトンブリーの対岸にあるラッタナコーシン島に新しい都を建設、ラーマ1世(在位1782–1809)として王に即位しました。これが現在も続くラッタナコーシン王朝(チャクリー王朝またはバンコク王朝とも呼ばれます)の始まりです。当初はアユタヤ王朝と同様に中国との貿易を重視しつつ、地方については封建制による統治を行っていましたが、ヨーロッパの列強が押し寄せ、ビルマやラオス、カンボジアなど近隣諸国が相次いでイギリスやフランスの植民地となったラーマ4世(在位1851–1868)やラーマ5世(在位1868–1910)の時代にその方針を転換。イギリス、アメリカ、フランスなどと通商貿易条約を結び、中央集権的な絶対王制のもと、行政組織の改革や鉄道・道路の敷設、電気や電報事業などの近代化が行われました。それらの努力と巧みな外交政策の結果、タイは列強の侵略から東南アジアで唯一独立を守り通すことができたのです。しかし、官僚や軍部らによる1932年の立憲革命により、王は象徴的な存在として憲法に定められ、政治には直接関わらない立憲君主制へと移行しました。さらにその7年後の1939年にはシャム国から「タイ王国」と呼称を改め、現在に至っています。

タイの主な歴史

7~8世紀

先住民の中でモーン族のドヴァラヴァディー人がチャオプラヤー川流域に王国を形成

11~12世紀

タイ族によって形成された小国家がクメール王朝の支配下におかれる

スコータイ王朝

1240年頃~1438年 仏暦1783年頃~1981年
タイ族初の統一国家が成立、タイ文字の制定や上座部仏教が国教となる

アユタヤ王朝

1351年~1767年 仏暦1893年~2310年
アユタヤに都を移し、スコータイ王朝を滅ぼす
ポルトガル、オランダ、フランスなどとの海上貿易が盛んに行われる
1767(2310)年 ビルマに敗北

トンブリー王朝

1767年~1782年 仏暦2310年~2325年
1767(2310)年 アユタヤを奪還し、トンブリーを新たに王都へ

チャクリー王朝

1782年~現在 仏暦2325年~現在
1782(2325)年 ラーマ1世即位。王都をバンコクへ移す
1826(2369)年 イギリスとバーネイ条約締結
1832(2375)年 アメリカと通商条約締結
1872(2415)年 英語学校の開校
1887(2430)年 陸軍士官学校の開校
1906(2449)年 海軍士官学校の開校
1932(2475)年 絶対王政から民主主義体制へ移行
1939(2482)年 呼び方をサイアム(シャム)国からタイ国に改める

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